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阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ、アグダ)は、金の初代皇帝(在位:1115年1月28日(1月1日) - 1123年9月19日(8月28日))。女真族完顔部(ワンヤン部)の族長であった。日本では女真名である阿骨打(アクダ或いはアグダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。 == 生涯 == 祖父は生女真・完顔部の族長烏古廼(景祖)、父は同じく劾里鉢(世祖ガリベチ、烏古廼の次男。阿骨打は次男)。生母は女真挐懶(ダラン)部の首長の娘である翼簡皇后。 完顔部(満州のワンギヤ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む)は女真人のうち遼からは間接統治を受ける生女真(せいじょしん)の一部族であり、松花江の支流按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省ハルビン市)に居住していた。阿骨打の先祖は完顔部の族長として遼から節度使の称号を与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。阿骨打は完顔部の族長・節度使を務めた父、叔父の盈歌(穆宗)、兄の烏雅束(康宗)を補佐して完顔部の勢力拡大に功があり、このころまでに完顔部は生女真をほとんど統一した。1113年、兄が死ぬと阿骨打が完顔部を継ぎ、都勃極烈を称した。翌1114年遼に対して挙兵し、遼の拠点寧江州(現在の吉林省)を攻撃し、これを占領した。また猛安・謀克の制を立てて、女真人を軍事的に組織した。また阿骨打自身は雄々しい容貌を持ち、身の丈八尺の偉丈夫で、寛大で厳格かつ寡黙な男性で、女真族の理想的な君主であったという。 1115年、阿骨打は按出虎水で皇帝に即位し、国号を大金と定め、按出虎水にある会寧(上京会寧府)を都とし、「収国」の年号を建てると、同年遼の天祚帝率いる大軍を破った。北の遼に苦しめられてきた北宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年、金と海上の盟といわれる同盟を結んだ。これにより阿骨打は遼との決戦に臨み、同年遼の都上京を占領し、さらに燕京(現在の北京)に迫った。翌1121年遼の天祚帝は燕京を放棄して西走し、遼の支配は殆ど壊滅した。 一方、宋軍は方臘の乱など国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れ、阿骨打は北宋との盟約に従って燕京を攻め残した。その後、宋軍が到着して燕京に攻めかかるが、弱体化した宋軍は耶律大石らの率いる遼の残存勢力に連敗したため、宋軍の司令官童貫は金に対して燕京を落とすよう要請し、金軍が燕京を攻略した。金の将軍達はこのまま燕京を金の領土にすべきだと主張したが、阿骨打は盟約を尊重して燕京以下六州を北宋に割譲し、代わりに燕京の人民を全て連れ去った。この際に大規模な集団強姦が発生したといわれる。またこの代償に、金は遼にかわって宋から歳幣に銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧20万石を受けることになった。 1123年、阿骨打は逃亡した遼の天祚帝を追撃を試みたが途中で発病し、部堵濼(ウトゥル、現在の瀋陽付近)で56歳で病没し、同母弟の呉乞買(太宗)が後を継ぎ、1125年に天祚帝を捕え遼を完全に滅ぼしたが、歳幣の支払い等を巡って北宋と対立し、1127年靖康の変で北宋を滅ぼし華北一帯を領有する。なお、3代皇帝熙宗以降の金の皇帝は、最後の末帝を除いて阿骨打の子孫である。 2003年9月5日、北京市文物局は、北京市南西郊外の九龍山で1980年代に発見された金朝の陵墓から、阿骨打のものと見られる石棺と遺骨、装飾物が発掘されたと発表した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「阿骨打」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Taizu of Jin 」があります。 スポンサード リンク
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